浴槽

舟形の浴槽がひとつ置かれただけの部屋だった。私はその中に、浴槽の外側には親友が寄り添っていた。見上げた天井は随分高かった。

私たちは何か話をしていたが、浴槽に満たされた温水が皮下にじんわりと浸透してくる感覚が心地よく、私は何度も眠りの淵へと誘われた。彼女は私が眠りこけて湯船で溺れてしまわないように私の片腕を支えている。床のどこか一点を見つめながら話し続ける彼女の黒い睫毛は昔も今も印象深い、と私は思った。

急に部屋の扉が開くと、脚立をかかえた顔の長い老人があらわれた。天井の方を指差して何か云っている。何処かにメンテナンスを施そうというのだろう。彼女が立ち上がりドアの方へ走っていくと「せっかくですが、また後にして下さい。」と云っている。老人は退去して行った。そして私たちはもとのように話をし始めた。しかし大したいとまもなくさっきの老人が再びやって来た。私はドアに背を向けたまま「またあとで―」と云った。

だがすぐにまた老人はやってきたのだ。繰り返し再生される映像を見るように、さっきと全く同じ表情で天井を指差しながら同じ言葉を繰り返す。私たちもまた同じように応じ、そして老人は再び帰って行った。だがその後も粘り強くドアは叩かれた。今度は戸口の隙間から脚立の頭だけをのぞかせている。ちょっと剽軽に思えた。それから老人を外に待たせて着替えることにした。

ところが私は立ち上がることができなかった。思うとおりに動かせるのは首から上だけで、あとは痺れてまるで自由にならないのだ。様子がおかしいことに気づいて私の手を取ろうとした彼女は、その際湯船に触れた彼女自身の手を驚いたように引っ込めた。「何これ。真水じゃない!」そう叫んだ彼女は私のコチコチに固まった腕を掴んで激しく揺り動かした。私は青白くなった自分の腕を見つめると、たった今自分が浸かっているのが全くの冷水であることに気がついた。折り曲げた両足が完全に凍りついている。 (2/12/2005)


top | archives